スティーブ・ウィンとはどのような人物なのか?ユニバーサル社や岡田氏との関係、裁判の経過、スキャンダルによる辞任、愛車デロリアン、配偶者やandrea hissomについてなどを詳しくまとめました。
今日のラスベガスを作り上げ、ラスベガスのウォルトディズニーとまで呼ばれたスティーブ・ウィンの半生に迫ります。
スティーブ・ウィンの経歴
1942年 1月27日、コネチカット州ニューヘブンのスティーブン・アラン・ウェインバーグに生まれます。
1946年 ユダヤ人差別を避けるため、父マイケルは息子スティーブが4歳の時、家族の姓を「ワインバーグ」から「ウィン」へと変更します。
1963年 大学の卒業を控えた3月、父親がギャンブルで$350,000もの借金を作り、心労で死亡します。
これを機にスティーブ・ウィンはメリーランド州ウェイソンズコーナーでビンゴパーラーの経営を始めます。
これが1年もしないうちに成功し、会社は拡大して行きました。
1967年 この成功をもとに、ラスベガスへ移住したスティーブ・ウィンは、フロンティアホテル&カジノの株式を少額購入します。
この年、ラスベガスで最も影響力のある銀行家と言われたE・パリー・トーマスと出会い、それ以降、土地取引のいくつかを彼に援助してもらうことが出来るようになりました。
1968年 1968年からの4年間は、自身の輸入したワインや酒類を販売する会社を経営していました。
1971年 大富豪ハワード・ヒューズやシーザーズ・パレスの絡んだ土地取引で大金を得たスティーブ・ウィンは、ダウンタウンのカジノのランドマーク的な存在であり、市内で最も古いカジノであったゴールデンナゲット・ラスベガスを買収します。
これを改装し、大成功をおさめます。
1980年 ニュージャージー州のアトランティックシティで、ゴールデンナゲットアトランティックシティをオープンします。
このカジノは1983年には、この都市で最も収入を得たカジノになりました。
1987年 ゴールデンナゲットアトランティックシティは、4億4000万ドルで売却されました。
1989年 ネバダ州ラフリンにあったネバダクラブカジノを買収し、ゴールデンナゲットラフリンが誕生します。
また、この年の11月22日、あのミラージュがオープンします。
スティーブ・ウィンにとっては初めてのストリップ通りのカジノ開発であり、この斬新なテーマ型の豪華なホテルの成功により、ラスベガスはは巨大テーマ型ホテルブームが巻き起こります。
1993年 トレジャーアイランドがオープンします。
1998年 世界一高価なホテル、ベラージオがオープンします。
あの有名な噴水ショーをはじめとして、とことん豪華なベラージオの成功は、ラスベガスがより高級で豪華なホテルになっていくことを示していました。
スティーブ・ウィンと、ユニバーサル社や岡田氏との関係
スティーブ・ウィンは、ウィン・ラスベガスを建設するにあたって、パチンコ大手メーカーユニバーサル(旧アルゼ)の岡田会長から出資を受けました。
そのため、ウィン・ラスベガスなどを運営する、ウィン・リゾーツの株式を20%ユニバーサル側は保有しています。
2009年にスティーブ・ウィンが離婚した際、前妻と保有株式を分け合ったため、ユニバーサルは圧倒的に大株主になっています。
しかし、2012年1月、岡田氏側ウィン・リゾーツ社を訴えました。
この背景にあったのは、ウィン・リゾーツ社がマカオ大学に対して100億円の寄付を行うことに関して岡田氏が情報の開示を求めたところ、ウィン側が拒否したことに起因します。
反対にウィン・リゾーツ側は、フィリピンで岡田氏が進めていたカジノ計画は、ウィン・リゾーツ社との利益相反に当たり、フィリピンの要人への賄賂を理由に岡田氏を解任し、同氏の保有する株式を3割引きで強制的に買い取ることを決定しました。
当然対立し、裁判は最近まで続いていましたが、2018年3月、ウィン側がユニバーサルに対して2800億円を支払うことで和解しました。
スティーブ・ウィンとデロリアン
スティーブ・ウィンは、あのバックトゥーザフューチャーに登場するデロリアンをよみがえらせた人物としても有名です。
デロリアンを製造していたDMC(デロリアン・モーター・カンパニー)は1980年に倒産しましたが、後にウィン氏によって買い取られ、現在新しく生まれ変わってデロリアンの製造販売をしています。
スティーブ・ウィンと配偶者
第一の妻は才女エレイン・パスカルです。
しかし彼女とは、1986年と2009年に2度の離婚をしました。
この2回目の離婚の際の慰謝料は、7億5000万ドル相当と言われており、現在世界の慰謝料ランキングで6位です。
第二の妻は、2008年に結婚したアンドレア・ヒッソムです。
盛大な披露宴が行われ、現在も離婚はしていません。